塩づくりの里山田

塩づくりの里 山田の変遷~当時の山田街

東野﨑浜の築造

天保12年(1841)、後に塩田王と呼ばれる児島味野の野﨑武左衛門が卓越した技術をもって東野﨑浜塩田を築造した。
文久3年(1863)には、東野﨑北浜も完成する。当作歩方制の採用による安定した塩田経営のもと、近隣各地から塩浜稼ぎの人々も多く集まり、山田は次第に発展していく。
明治8年(1875)には、東野﨑地区が独立して東野﨑村となったが、同22年(1889)、市町村制施行に伴い、山田・東野﨑・後閑・大藪・沼の5村が合併して山田村となった。又、山田には、一代浜子として塩業に尽くし、叙勲の栄誉を受けた方々もいた。
この地域は、地形的にも特に晴天の多い地区であり、製塩業に適していた。因みに、大正15年(1926)の観測状況は、8月平均気温29.3℃、2月平均気温5.7℃で寒暖の差が小さく、年間降水量949.6㍉、数年平均降水量1,000㍉と非常に少なかった。
(県下1271.7㍉、全国1,600~1,700㍉)

山田街の形成と賑わい

明治38年(1905)、塩が国の専売制になり、塩務局出張所が山田(白石の児島千賀太郎氏邸宅内の借宅―旧山田保育園)に設けられた。(同年、山田郵便局が開局)明治41 年(1908)、本庁舎が原に新築落成し、庁舎(落成当時の名称は「専売局味野収納所山田出張所」)を中心に山田街が形成されていった。
昭和3年(1928)発行の山田村誌に、山田の商業の沿革として下記の記述が見られる。
「現在、原部落は商家櫛比しっぴして東児島屈指の市街地となれるが、今より20余年前はこの辺りは僅かに数戸の商家を数ふるのみにして、真に寂寞の巷たりしなり。その発展の端緒は、蓋し塩務局山田出張所をこの地に設置せるに因すべし。(中略)原部落は胸上村大字西田井地と相連接して一小市街をなし、各種の商業機関殆んど完備し、日常物資の供給に於て欠ぐる所なし。殊にこの地が広大なる塩田を控へたれば労働者比較的多く、従って飲食業最も発達し、旅館・料理店等の多き東児島に於ても冠たるべし」
大正2年(1913)には、現玉野市で初めての劇場『蛭子座』(建坪170坪、収容人員1,000人)ができ、後に『大黒座』もできた。地元の人は固より遠隔地からも観客が来て、山田街は大いに賑わった。
山田村誌にも「各種劇・活動写真等の興行常に行われ、観覧者本村は固より八浜・鉾立・胸上等の遠地よりも来り。」とある。
大正6年(1917)、第一合同銀行山田出張所(元東児銀行支店)もでき、同年村役場を白石南原地に移転した(民家を買収改造)。大正9年(1920)、定期船『三力丸』が岡山へ就航。物資の供給と人の運搬が容易になり、物流も増 して商売も盛んになっていった。(不定期船も岡山市・後閑港・宇野港間を運航していた)
大正11年(1922)、山田に初めて電気が点いた(因みに上水道の山田地区給水開始は昭和41年(1966)である)。大正12年(1923)、駐在所が東野﨑から村役場の東隣に移転された。名実ともに『山田往来』と言われる旧道(西田井地から白石南)を中心に、山田小学校に至るまで連続する市街地が形成され、旅館・料理店・呉服店・雑貨店・荒物店・理髪店・酒店・菓子店等々(次ページ『塩づくりの里 山田の変遷マップ』参照)が軒を連ねていき、塩浜稼ぎの人々、又間接的な仕事に携わる人々も増えて、当時の山田は活気に満ち溢れていた。
大正15年(1926)、定期自動車が開通(井上自動車他、八浜・小串線、宇野・山田線)。又、上荷船(艀)と呼ばれる小舟が、塩や石炭、叺・縄等の資材の運搬に活躍し、組合も組織されていた。昭和3年(1928)発行の山田村誌によると、当時山田には西洋形船42艘、小船61艘、合計103艘の船があった。塩務局出張所東の川沿いには倉庫が建ち並び、仲背(仲仕)と呼ばれる人夫が荷を担ぐ姿が多くみられた。

戦中戦後の苦難

しかし、やがて宇野港が整備され、専売局出張所も宇野へ移転する。山田における業務は縮小され、人の流れも変わってくる。時代の変遷の中、戦時中は物資が統制され、配給制度が採られた。
米・麦・砂糖・塩からマッチ・その他の日用品等も隣組を通して配分された。そのため深刻な物不足がおこり、極端な食糧難に陥った。又、戦時中は労働力が不足し、山田では小学生(上級生)までもが学徒動員として塩田作業に従事させられた。
戦後も暫く食糧難が続いたが、物資の統制が解除され人々は敗戦から力強く立ち上がり、山田にも次々に個人商店が立ち並んでいった。塩業についても事業内容が著しく変化していった。昭和26年(1941)頃から入浜式塩田が流下式製塩法に改良され、労働人口が大きく減少する。
又、燃料も石炭から重油に代わり、石炭船も入港しなくなった。そして、交通機関の発達に伴い、海上運送中心から陸上運送の自動車に変わり、山田の賑わいは消えていった。さらに塩業は、昭和44年(1969)に膜濃縮製塩法へと移行し、塩業の就労人員は大幅に減少する。
商店も1970年代ころから高度経済成長のもと大型化されていき、やがて車社会の到来とともに、個人営業の商店などは少なくなっていった。

時代とともに

時代の大きなうねりの中、現ナイカイ塩業株式会社は、創業以来一貫して塩業に携わり、山田の歴史を刻んできた。時代の流れ、技術の進歩は止まることを知らないが、大きな可能性を秘めた広大な塩田跡地や塩竃神社、専売局出張所(現しおさい)、当時としては珍しい舶来レンガ造りと言われる文庫などが、いつまでも山田の塩づくりの歴史を語り伝えてくれることであろう。

専売局庁舎全景

専売局庁舎全景

東野﨑支店前の塩田風景

東野﨑支店前の塩田風景

山田往来1

山田往来1

山田往来2

山田往来2

山田往来3

山田往来3

塩竃神社前の塩田風景

塩竃神社前の塩田風景

旧明神橋

旧明神橋

三五の灯台

三五の灯台

参考文献:山田村誌・玉野市史・東児町史 海のもつ可能性を求め続けて(ナイカイ塩業株式会社)