塩づくりの里山田

塩づくりの里 山田はこの人から始まった

[写真]野﨑 武左衛門

東野﨑塩田創始者

野﨑 武左衛門

倉敷市児島味野の人
寛政1~元治1(1789年8月1日~1864年8月29日)

塩田・新田開発者。塩田王と呼ばれる。幼名元蔵。いなみゆづか。児島郡味野村の昆陽野こやの貞右衛門の長子として生まれる。幼少から太閤記を味読し、対岸の讃岐(現香川県)まで師を求めて書を学び、青年に成った時には「身の丈六尺に近く、人品骨柄人に超えた」(「松樹繁栄記」)という。
文化4年(1807)18歳の頃、持高7石8斗余の農業経営に基づく家政打開のため、足袋の製造・販売に着手し、4、5年にして工場制手工業主に発展し、その販路は、東は大坂、西は防長(現山口県)まで広く瀬戸内一帯に及んだ。しかし、文政9年(1826)頃、遠隔地商業にからまる売掛金回収に行き詰まり、何らかの方向転換を迫られたため、義伯父に当たる児島郡天城村(現倉敷市藤戸町天城)の大庄屋格中島富次郎の意見を入れ、塩田開発を決意して藩庁に請願した。

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文政10年(1827)、藩庁の許可を得て開発に着手し、文政11年(1828)、味野村に32.2ha余(16塩戸)、文政12年(1829)、赤崎村に15.5ha余(8塩戸)、合わせて約48ha、24軒前の野﨑浜(元野﨑浜)を完成させた。この時から昆陽野姓を野﨑姓に改名した。
続いて天保1年(1830)、児島郡日比・向日比・利生(いずれも現玉野市)に亀浜塩田の開発を試み、翌年11ha余(5塩戸)を完成させた。
天保2年(1831)、武左衛門は塩・石炭問屋営業の許可を得て味野会所を設置し、塩業経営に着手するとともに、東児島の海浜に着目して東野﨑浜開発を計画し、地元の胸上村(現玉野市胸上)との交渉を妥結させた。東野﨑浜は、天保9年(1838)着工し、天保12年(1841)、73ha余(38塩戸)の完成を見、武左衛門は塩・石炭問屋営業の免許を得て東野﨑会所を設置した。一連の塩田開発の成功によって、弘化4年(1847)、藩庁から苗字帯刀御免・5人扶持を頂戴した。
嘉永1年(1848)には、藩命によって福田新田築立方が児島郡柳田村(現倉敷市児島柳田)庄屋汲五平から武左衛門に変更された。嘉永2年(1849)開発に着手し、嘉永4年(1851)、703ha余の福田新田開発を成功させ、引受額61ha余の土地を取得し、嘉永6年(1853)、福田新田5ケ村大庄屋役を拝命した。
この年、邑久郡久々井浜(7.9ha余・4塩戸)の塩田開発も行い、又、文久3年(1863)には、東野﨑北浜19.7ha(8塩戸)を完成させた。
武左衛門の塩田・新田開発の偉業に加えて、最も精彩を放ったものに、当作歩方制の採用がある。(当作歩方制の詳細は下のコラム欄参照)安定した塩田・耕地経営を背景に、嘉永5年(1852)、表書院の普請を完成させ、岡山藩主池田慶政・茂政を始め、伊木若狭・池田出羽・池田伊賀の3家老もしばしば来邸し宿泊した。文久3年(1863)には、幕末政争で困窮する藩の借り上げに対して1万両を上納した。
塩業経営が軌道に乗った天保末年(1840年代初)頃から、茶道(速水流)、華道、絵画、和歌、能・狂言など風流を楽しみ、京都からは速水宗匠がしばしば来邸した。元治1年(1864)、死去に際して遺した「申置」7ヵ条(松寿院野﨑翁遺訓)は、家産管理と運営、地域との共生などについて、公利優先・衆議尊重などの指針を後世に示した。(岡山県歴史人物事典)

当作歩方制(とうさくぶかたせい)について

当作歩方制とは、所有者自身が直接製塩事業に当たるのではなく、製塩事業は「浜店」という機関を設けて、事業の管理・事業用品の供給及び各浜の収支計算を所管させる。製塩作業は「当作人」が行い、塩戸毎に当作人から小作料を徴収する。製塩上必要な材料は浜店から供給し浜毎に毎年度収支決算を行い、その損益は当作人が負担する。浜店勘定の収支決算結果を野﨑本店の計算に移し、各塩戸の純損益は一定の歩合により地主と当作人が分担するという方式である。

この経営の本質は、製塩免許を地主の自作とすることができないと同時に、定額の小作料を納めるからといって直に小作制である言うこともできない。その経営の沿革及び実態をよく考査すると、正に自作と小作を折衷した特種な形態であり、両者の長短を調和した制度であると言うことができる。即ち農家経済上に言う、所謂分益農に類するものであり、分益共作制度とも言うべきものである。
(「塩業に関する諸取調」(明治31年)、「野﨑式塩業之大要」(明治末年)から抄訳)

東野﨑支店全景

東野﨑支店全景

[写真]春藤 武平

流下式塩田開発者

春藤 武平

明治17~昭和43 (1884・10・25 ~ 1968・3・11)
玉野市八浜出身

塩業家。児島郡八浜村(現玉野市)で善治の二男に生まれる。東児高等小学校卒業後の明治32年(1899)、15歳で野﨑家の経営する東野﨑支店に入り、製塩技術の改良に取り組む。
大正7年(1918)、34歳のとき台湾に赴き、野﨑台湾塩行で天日製塩法について実地研究。昭和1年(1926)、東野﨑浜に枝条架濃縮設備を設置して改良に当たった。

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枝条架は、既にドイツ、フランスでみられ、日本でも塩専売制実施直後、島根・山形・千葉県でも設置されたが、その成績が不振であるため廃止されていたものであった。昭和6年(1931)、下津井港で底曳網に藻を懸けているのを目撃して枝条架装置改良の発想を得、素材を藻から棕櫚しゅろ粗朶そだ、竹枝と換え、遂に竹枝をやぐら状に編んで、動力による海水滴下を試みて成功した。昭和9年(1934)には、鹿児島県から大量の竹枝を購入して独特の枝条架式濃縮装置を考案し、これを入浜式塩田の周囲に構築した。同年9月の室戸台風で約半分が倒壊したが、直ちに改良を加えて頑丈なものに組み換えた。
昭和19年(1944)、枝条架式と斜層貫流式を結合した流下式試験塩田を児島郡鉾立村番田(現玉野市)に設け、実験を繰り返して企業化に成功し、以後東野﨑塩田、元野﨑塩田に実施していった。昭和27年(1952)、日本専売公社は春藤式製塩法の優秀性を認め、全国の塩業者に流下式製塩法への転換を奨励した。
昭和33年(1958)には、全国の塩田が流下式への転換を達成し、過酷な重労働の軽減と生産力の飛躍をもたらした。昭和23~41年(1948~1966)、内海塩業(株) 取締役社長に就任した。昭和32年(1957)、黄綬褒章、昭和40(1965)、勲五等双光旭日章を受賞。
(岡山県歴史人物事典)

塩田築造のスペシャリスト

西井 多吉

文化12~明治32年(1815・6・4~1899・5・9)倉敷市の人

児島、野﨑家家僕。五猿と号す(通称さるこじい)。浅口郡勇崎村(現倉敷市玉島勇崎)に生まれる。
15歳から児島郡味野村(現倉敷市児島味野)の塩田王野﨑武左衛門・武吉郎の二代に67年間に亘って仕え、福田新田の開発や塩田の開発、塩田経営や小作地管理、家産管理に手腕を奮い、野﨑家を西日本随一の塩田地主・耕地地主に飛躍させた。明治26年(1893)、その功により緑綬褒章が下賜された。
野﨑家には、原撫松が描いた五猿翁の肖像画が残っている。
野﨑家墓地に葬られ、三島毅(中洲)の銘した墓碑が建つ。
又、郷里(現倉敷市玉島柏島西の谷)に遺髪碑がある。
(岡山県歴史人物事典)