- 雁木(がんぎ)と堤防石垣
- 堤防石垣
- 橋台
- 堤防石垣
- 橋台と橋脚
- 樋門(ひもん)
- 方形 鹹水槽(かんすいそう)
- 水門
- 堤防石垣(保存活用のあり方)
- 専売局庁舎・文庫
- 樋門(ひもん)
- 樋門(ひもん)
- 方形 鹹水槽(かんすいそう)
- 樋門(ひもん)
- 樋の輪
- 円形 鹹水槽(かんすいそう)
- 三五の燈台跡地
- 開閉橋(明神橋)
- 塩竈神社・東野﨑塩田碑・鐘楼跡・井戸枠
- 船着き場(岸壁)
- 防波堤
- 浜井戸
- 用水槽
(1)雁木と堤防石垣
堤防石垣に付属する花崗岩製の石階段。汐入川(六間川)で物資の搬送等を行う船と塩田との連絡用(荷役足場)に使用された。この周囲の石垣については、谷積み工法(切り石の剣先を上にして積む)である。東野﨑塩田跡には数多く雁木がみられ、汐入川が運河の役割を果たしていたことを物語る貴重な産業遺産といえる。全国の塩田跡地で、これほどの数の雁木が残る例は珍しい。
(2)堤防石垣
この周囲の石垣については、乱積み工法(大小様々な石を組み合わせて積む)である。
技術的にみると、(1)の場所よりも築造年代は古いと思われる。
(3)橋台
塩田と対岸を結ぶ橋(開閉橋-(18))が架かっていた。橋台は乱積み石垣である。浜子は、かつてここを通って塩田に出入りした。開閉橋は、塩竈神社前・2 番・10 番・20番浜に架かっていた。
(4)堤防石垣
この周囲の石垣については、谷積み・乱積み・布積み(各段の横めじが一直線になる積み方)の3種類があり、すでに崩れた箇所はコンクリートの擁壁で覆われている。
(5)橋台と橋脚
ここには(10番側)、汐入川をまたぐ橋が架かっていた。橋台は乱積み石垣で、川底から、橋脚の一部と思われる花崗岩の石柱2本が立ち上がっている。
(6)・(11)・(12)・(14) 樋門
馬蹄形の構造物が堤防石垣に付属している。かつて海水の取り入れ口であった。(11)は、馬蹄形に積み上げた石垣(布積み)の中央部に昇降用の石段が設けられおり、周囲の堤防石垣は谷積みである。(12)は、現在、繋船用の梯子が架けられている。
左上:(6)、右上:(11)、左下:(12)、右下:(14)
(7)・(13)(方形)・(16)(円形) 鹹水槽
塩田の採鹹で得られた濃い塩水の鹹水を貯蔵しておく水槽。
堤防上に立地し、方形のものと円形のものがある。いずれもRC造(鉄筋コンクリート造)。道路の拡張や舗装、土地の開発等に伴い、破損が見られる。ちなみに、昭和9年前後までは粘土製の坪(槽)であった。
左上:(7)、右上:(13)、下:(16)
(8)水門
汐入り川と遊水堀とを分かつ水門の遺構。潮の干満に応じて樋の開閉を調整したものと思われる。現在は使用されていない。花崗岩の切石側面に樋を挿入するための2本の溝が見られる。また、水門の上を花崗岩切石の桁橋が架かっている。いずれも一枚石である。
ちなみに、この水門がある小川原尻水尾は、かつて年貢の積み出し場であった。
(9)堤防石垣(保存活用のあり方)
南浜と古浜とを分かつ汐入川には、最も長い距離の堤防石垣を見ることができ、所々に雁木も残されている。度々の補修を感じさせるように、乱積みと谷積みの両方が見られる。堤防上に生えた雑木が成長して、石垣に孕みや損壊が多く見られる。
孕みの箇所については、雑木の除去が必要な場合もあり、損壊箇所については石積み工法による補修が歴史的景観保存として望ましい。瀬戸内の旧塩田産地の多くが、堤防石垣を破壊もしくはコンクリートの擁壁で覆うなどして、塩田の歴史的景観が失われる傾向にある。東野﨑浜跡の塩田遺構の残存状況はきわめて良好といえる。しかし今後の取り組みしだいでは、他の旧産地同様、失われるのも時間の問題である。一方、補修を図る際に石積み工法を取り入れたとすれば、入浜式塩田の面影を残す全国一の製塩業遺産地域として、高い評価を受けるであろう。近代化遺産の保存活用は、まちづくりの手法の一つとして、いまや時代の潮流である。
(10)専売局庁舎・文庫
竣工当時の名称は、「専売局味野収納所山田出張所」。大蔵省の威厳を示すため、洋風建築の意匠となっている(アールヌーヴォー的な細工に特徴あり)。これ以外で、全国に現存する明治期竣工の塩の専売庁舎は、兵庫県赤穂市の旧「大蔵省赤穂塩務局」(明治41年竣工)のみが知られ、両建物は希少価値の高い産業遺産といえる。
山田の旧庁舎は、昭和16年頃から児島郡山田村役場として使用され、同28年から39 年まで玉野市山田支所、現在は「老人憩いの家」やミニデイサロン「しおさい」として使用されている。窓枠、外壁の塗装、屋根瓦などは一部やり替えたが、内部の窓口カウンターのガラス戸や玄関の門柱はそのままで、官庁の趣を残している。文庫については、塩専売庁舎に付属して建てられ、公文書が保管された。煉瓦造平屋建て・桟瓦葺き(約30㎡)で、庁舎と同時期の竣工と考えられる。同様の文庫が愛媛県伯方島や赤穂市にも現存し、庁舎とセットで現存する例は珍しい。小屋組は木造トラスで、室内壁は漆喰が施され、床は板の間で高床構造となっている。3 ヵ所の窓と正面入口の扉は鉄製で、窓の内側には鉄格子、入口扉の内側は引き戸となっている。以上の構造・設備から、防火・防湿・防犯対策がうかがえる。
平成23 年(2011)10月に国の登録有形文化財に登録された。
(15)樋の輪
馬蹄形の形状から、樋の輪と思われる。改修によって、全体がコンクリートの擁壁に覆われている。現在は遊漁船の繋船施設となっている。樋の輪とは、海から塩浜への海水取入口に設置され、風波による樋の損傷を防ぎ、堤防補強の役割を果たした塩田遺構の一つ。樋門のある箇所を石積みで丸く囲んで、海水が自由に出入りできるようにした石堤をいう。近郷では倉敷市味野の元野﨑浜に一基、樋の輪の遺構が見られる。他県では愛媛県伯方島・大三島、広島県生口島で遺構が確認されている。保存状態のいい大三島の遺構3基については、国の登録有形文化財となっている。
(17)三五の燈台跡地
ここにかつて、元野﨑浜灯明台(児島)と同様の和式灯台が建っていた。
嘉永5年(1852)に設置された当初は、石造灯明台であった。明治初年頃に木造に改築され、大正14年(1925)以降は別に電灯が堤防上に設置されていた。現在の地表部分には、遺構は確認できない。古写真や現存する元野﨑浜灯明台らをもとに、灯明台の復元を図り、電灯代わりに点灯を行うことになれば、運河としての風情が一層ひきたつであろう。
(18)開閉橋(明神橋)
RC造。現在は使用されていない。橋桁はすでに撤去され、骨組み部分だけが残されている。これ以前は木造で、大正15年(1926)にRC造となった。汐入川が運河の役割を果たしていたため、船(上荷船)が通航する際、船から竿で中央部分を横にはねて開閉し、帆柱を通過させていた。橋名称は「明神橋」。ここから旧専売局舎へと汐入川が延びており、かつて局舎の側に塩の収納倉庫があった。修理復元・保存整備を図ると、周辺区画一帯が一層引き立つ。堤防石垣・雁木・鹹水槽・船着場・塩竈神社等、この橋周辺に東野﨑浜で最も多くの製塩業遺産が確認できる。
(19)塩竈神社・東野﨑塩田碑・鐘楼跡・井戸枠
天保9 年(1838)の塩田開発に際し、陸前塩竈神社(宮城県塩竃市)から勧請された。現在の拝殿は昭和3 年(1928)の竣工で、職人が丹精を込めて造った様子が、唐破風や彫刻の意匠から伝わってくる。境内には、幕末期の石造灯籠・鳥居・狛犬や、明治17年(1884)に設置された東野﨑塩田碑などが立ち並び、この地が塩田開発とともに歩んだ歴史を感じることができる。鐘楼跡の方形の基礎枠や塩田用の井戸枠(豊島石製)なども境内に残され、稲荷神社については、10 番浜から奉遷したものである。
左上:塩竈神社、右上:東野﨑塩田碑、左下:鐘楼跡、右下:井戸枠
(20)船着き場(岸壁)
雁木は、今も残されており、現在、この南側に1500㌧積みの貨物船が接岸し、塩の荷役を行っている。石垣遺構の岸壁として珍しい。
(21)防波堤
かつて34 番付近に東西各々19㍍の長さの防波堤が築かれていた。沖合の本船(石炭船)から、別船に石炭を積み替えてこの防波堤に接岸し、塩戸ごと計量して「はしけ」で配られていた。21 番のものは長さ158㍍(明治19 年、同24 年、同35 年の3 回に工事を施工)。現在は防波堤の沖合に一文字の波止も築かれている。また、落合川の海に注ぐ箇所にも25.5㍍の防波堤があった。現在、海岸部分はコンクリートの護岸工事が完了し、一新している。
(22)浜井戸
東野﨑地区の大部分は、白石に設けられた貯水池より飲料水の供給を受けた。
また、各塩戸はそこから一番近い所にある井戸や、よく湧き出る井戸を選んで汲みに行っていた。
(23)用水槽
川尻川の中に、引き潮になると方形のコンクリート槽が現れる。これは塩の干満を利用し、海水を常に貯水状態に保ち、主に防火用水として利用していた用水槽である。